心で学ぶ言葉2(杉浦幹享)

2024-12-05

心で学ぶ言葉

②言(ことば)と意(こころ)

杉浦幹享

日本人が外国人として中国語で詩を作るという現象は文学面でも興味深いことである。外国語を書いたり読んだりして感動するときの不思議な感覚は一体どこから来るのだろうか。

詩は言葉であるから写真のように受動的には鑑賞できず、読む際にこちらから能動的に心を動かそうとしなければその感動には到達できない。そのとき、異国と異国をつなぐ感動には普遍的なものと呼べる何かがあるはずである。

前回紹介した竹添進一郎は中国を訪れた際、1877年に清末考証学者の兪樾(ゆ えつ)と歓談した。竹添自身も漢学を学んでおり、兪樾も1866年に日本の江戸時代の代表的な儒学者 荻生徂徠 おぎゅうそらい(1666~1728)の『 論語 ろんご ちょう』を読んでおり、その漢学をめぐるやりとりは兪樾『春在堂随筆』に記されているといい、ほかにも日本人による漢詩を集めた兪樾『東瀛詩選』を刊行して日本漢詩を中国に伝え、また文言小説『右台仙館筆記』を著して日本の物語を中国に伝えているともいう。

このエピソードのキーワードは「言葉を介して興味をもつこと」である。

兪樾は考証学者として日本思想における荻生徂徠や安井息軒(1799~1876)の研究に興味を持っていたが、研究を通じて日本に興味を持っている。興味を持つというのは心の動きである。つまり、心こそが人類に普遍的なものである。

学生諸君にとって「言葉を学ぶこと」と「心を動かすこと」とはうまく結びついているだろうか?教科書に従って「言葉を学ぶこと」が目的になっていないだろうか?

かつて荻生徂徠は言葉を介して古代中国の物事を知り、古代中国の思想(意:ココロ)を理解しようとした。中国語も堪能で中国趣味がある徂徠にとって、中国は聖人の国であり、憧れの聖地であった。その中国語を学ぶことで中国への愛を強めたのである。清末の兪樾もまた時代を超えて徂徠の思いを受け止めた。

言葉は心であり、人は言葉を介して心を分かち合える。

外国語学の本質と目標はこのようなところにあるのではないだろうか。言葉をデータとして処理するAIの時代において、このような心の働きかけこそが人類に新たな発見とイノベーションをもたらすと信じたい。