日本における四川料理の父・陳建民(1919~1990)

2025-11-04

日本における四川料理の父・陳建民(1919~1990)

四川外国語大学日語学院講師 杉浦幹享


 日本における中華料理は中日の人的交流の生きた歴史である。江戸時代から続く貿易港・長崎の中華街(福建省出身の華僑が多かった)や幕末の開国期に「唐人町」「南京町」と呼ばれた横浜や神戸の中華街に中国料理が伝えられ、日本では主にここで伝えられた広東料理が広まった。そのために実際に日本人が中華料理と聞いて思い浮かべるのは主に広東料理である。戦後広まった東北地方の餃子のほかに、中国四大料理(四大菜系)として小籠包を出すレストランなどでは「上海料理」と店名に書いて特別感を出す。北京料理の専門店は高級店のイメージがある。その中で日本における四川料理は比較的歴史が新しく、魅力的なイメージがある。その四川料理を日本に紹介したのが四川省富順県生まれの陳建民(ちん・けんみん。日本国籍取得後の日本名:東 建民:あずま・けんみん)である。

陳建民は10人兄弟で3歳の頃に父を亡くし、困窮の中でほとんど教育も受けずに幼いころから働きながら母と兄弟を支え、料理を学び、雲南、重慶、武漢、南京、上海を転々とした。国共内戦の末期ごろ台湾や香港に移り、次いで1950年代に日本に移住し1953年に日本人の関口洋子(せきぐち・ようこ)と結婚して台湾出身の龍智議と共に四川料理の専門店である「四川飯店」を開店し、麻婆豆腐(まーぼーどうふ)、回鍋肉(ほいこーろー)や青椒肉絲(ちんじゃおろーすー)、担担麵(たんたんめん)、棒棒鶏(ばんばんじー)などの四川料理を普及させた。彼が日本に伝えた回鍋肉は日本人の味覚に合わせて甜麵醬を使った甘い味で、重慶の味とは違うが、帰国して日本の回鍋肉を食べるたびに陳建民を思い出す。日本人が愛するエビチリも干を基に彼が日本人に合わせて開発した料理である。

彼は伝説的な料理人でもあるが、NHKの料理番組に出演して中華料理を広めて主婦を中心に多くの日本人に熱烈に敬愛された。彼の日本語は専門的な教育を受けたものではなく、アクセントに中国語訛りがあり、語彙の誤りも多いが、冗談を交えたユーモアのある語り口によって一種の魅力となって独自の可愛らしさと魅力があり、「陳建民語」と呼ばれて愛された。彼は間違った日本語を恥ずかしいと思っておらず、視聴者もまた彼のたどたどしい日本語に魅力を感じた。正しさよりも中華料理の魅力を伝えようとする情熱で多くの視聴者を魅了したのである。日本語の文法やアクセントは習得が難しいが、難しいゆえに完全に正確でなくても伝えようとする意志があればコミュニケーションはできる。日本語習得の可否はその意思があるかどうかの問題であるともいえる。

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