学生時代の思い出②

2025-04-15


四川外国語大学 日語学院 講師 杉浦幹享

 

前回の『水滸伝』の先生の話をもう少し続けたい。彼は中国人で、日本語はあまり上手ではなかったが、温厚な君子然とした人格の持ち主で言葉の端々に重みと思いやりがある先生だった。

その中国文学の授業は外国語文化学科と中国文学科の授業だったので、授業はすべて中国語で、日本文学科の私以外は中国・南開大学への留学経験があり、中国語会話も出来たし質疑もできた。

彼らは高級な中国語専用の電子辞書を持っており、それで逐一語句を調べていた。

当時はスマートフォンが普及しはじめたばかりで、あまり翻訳の精度がよくなかったので翻訳を目的にスマホを使う人は見かけなかった。一方の電子辞書は単語を調べるためだけに用いるもので、いまどきの学生がスマートフォンで会話文を検索してAI翻訳するのとは全く異なる。

私はといえば、第二外国語で一年間の中国語基礎を受けただけなので、会話できる水準でもなかったし、当然先生の中国語の授業も聞き取れないので、音を聞いてピンインや意味を推測しながら辞書も講談社の『中日辞典』の重たいのを毎回授業に持ってきてほかの学生に何分も遅れながら調べていた。

私はいつも最前列の席に座っていたので、先生が私のためにわざわざゆっくり話してくれているような気がした。その様子を見たのか、ほかの学生は私を嘲笑していたので、私は大いに恥じて自分が劣等生であることに耐えられなくなり、授業に出る自信がなくなって授業後に先生のもとへ行き、日本語で「先生、もし中国語ができない私が授業に来ているせいで皆さんの授業の質を下げなければならないようなことがありましたら、私はこの授業の履修を辞めますのでどうか遠慮なく仰ってください。」と言うと、先生はたどたどしい日本語で「その必要はありません。これまで通り出席しなさい。私はあなたのことはよく見ているが、劣っていると思ったことはありません。中国語の実力がなくても今まであきらめずに授業に来ています。そのことが既に結論ではないですか?」と言い、にこやかに諭してくださり、急に自信が出た気がした。

迷いへの答えはすでに自分の中にあり、それは石の中に刻まれたすじ(理)のようなもので、私の問いはそれを先生に探り当ててもらおうとしただけであった。

いま振り返って思えば、朱熹が『大学章句』で「所謂誠其意者:毋自欺也」の語に「誠其意者,自脩之首也。毋者,禁止之辭。自欺云者,知為善以去惡,而心之所發有未實也。」(中國哲學書電子化計劃より引用)という注をつけていることを思い出したのだが、そのときの先生の日本語はたどたどしかったが、それでもこの言葉の奥には中国哲学の響きが聞こえてきたような気がして私の心には深く刻み込まれた。