北京大学の戴錦華教授が本学でご講演

2023-02-14

北京大学の戴錦華教授が本学でご講

北京大学人文特任教授・同大学映画文化研究センター主任の戴錦華教授は、本学英語学部の誘いに応じて、20221128日午後7時から、「映画のジレンマと主体の危機」と題するオンライン講演を行った。本学英語学部の張旭春教授は司会を務め、多くの本学教員・学生が受講した。

 

 

司会中の張旭春教授

 

 まず、張教授は戴教授の研究分野と成果を簡単に紹介した上、歓迎と感謝の意を表した。戴教授の主な研究分野は映画文化とポップカルチャーで、フェミニズムとジェンダー差別等にも及んでいる。

 

 

 

講演中の戴錦華教授

 

  冒頭、戴教授は、20世紀の映画芸術の輝かしい時代を振り返りつつ、情報革命、DX(デジタルトランスフォーメーション)、インターネット及びモノのインターネット等によって、映画の直面している現在の課題を述べた。それから、ハリウッド黄金時代の名高い三人の映画監督(JeanLucGodardAlfred HitchcockBillyWilder)の写真からして、キリスト教に代わり得る一種の公共芸術または巨大な産業文化システムとして機能していた映画は、人々に精神上の解放感を与えた、と指摘した。 

 そして、映画芸術の直面した様々の困難の中で、フィルムが一般的に使われなくなったことが媒体面における最も激衝撃的な変革をもたらした、という。20世紀の高度工業化のもたらした技術発明であるフィルムは、数多くの石油の副産物の一つであったが、今やデジタルに取って代られた。それに伴い、映画情報の保存と流通も変わった。今回の講演で取り上げる「映画のジレンマ」とは、上記の問題をめぐるものではなく、映画の表現・映画の語り・映画芸術・映画文化におけるジレンマと、現代における主体の危険性はじめ、グローバルな社会文化のジレンマである、と続けた。

 次に、戴教授は、韓国映画『パラサイト』によるオスカー・グランドスラム獲得や「メキシコ三人衆」の台頭、女性監督の受賞を例に挙げ、ハリウッドに代表された社会的価値と映画の美的感覚が、新たなものへと移行しつつある、と語った。つまり、第三世界から先進国への移動は、グローバル化の社会的・文化的事実となった、ということである。アメリカ人ではない男性・女性監督がアメリカを表現することに大きな成功を収めたことは、アメリカ主導のハリウッド映画文化は以前ほどの支配力をなくしていることを物語っているとはいえ、それはいまだに我々の主流文化の座を占めている、という。

 続いて、戴教授は、「バーニング」や「ドライブ・マイ・カー」等の有名な外国映画を例に、メタナラティブを紹介した。この手法は映画の「ファンタジー」を際立たせると同時に、グローバル化の文化構造をより深く表し、人々の欲求の複雑性もはっきりさせている。それを、単に進歩または後退と決めつけるのではなく、映画のジレンマから生じた思想と停滞した心理状態の面から検討する必要がある、と指摘した。

そして、データベース的映画『TheFrench Dispatch』は、映画に反するような手法と言語を用いている。それは人々に「語りは今の時代では、一体何を意味するのか」と考えさせる。近年の映画美学の試みとしての『TheHand Of God』と『Belfaste』における子供時代の思い出は、個人の癒しに重点を置いたもので、社会一般に共通の課題を提起することができなかった。そこで、戴教授は、「映画は今でも公共性を持つのか」「社会一般に共通の課題を提起できなかった原因は何であるか」等の問題について、映画の語りは最終的に映画そのものに戻り、その内なる矛盾や語りは袋小路に入ったからだと述べた。だから、個人と個人の相互関系に注目し、さら一歩進んで主体性や社会文化の有機性の面から物事を考えるべきだと強調した。

最後に、戴教授は、文化に対する思考の相違点と共通点にも言及した。歴史と立場の違いから、西洋映画の美的感覚に沿って中国を表現するのではなく、われわれ自身の歴史と現実に立脚し、どこから切り込むか、どうやって受け止めるかといった課題を改めて考えるべきだとし、『Cahiersdu Cinéma』の一句「映画とはものに迫る芸術であり、他者を撮ることに集中し、自身を忘れた時にのみ意味があるものだ」をもって講演を締めくくった。

 

 

 

質疑応答

 

 質疑応答の部では、戴教授は「若者はどのように自己を見つめるべきか」等の問題に答えた。司会者の張教授は講演内容を総括し、戴教授に改めて謝意を表した。講演はこれで終了した。